◇沖縄映画「ウンタマギルー」を観る
2017-02-21



ウンタマギルー(プレビュー)

映画をいくつか観ていると、“色”を持った映画に出会うことがある。
私にとっては、岡本喜八の「肉弾」がそうである。
「肉弾」は1968年に低予算で撮影された白黒映画なのだが、私の脳裏には随分と長いこと砂丘の風景が黄色く印象付けられて記憶されていた。

1989年の高嶺剛監督の沖縄映画「ウンタマギルー」も、そういう映画のひとつだった。
満月の夜の砂浜のシーンに、果てしなく透明な群青色の闇と青白い月光と、明るい海と海岸が印象付けられていた。
映画の内容はほとんど覚えていなかったが、映画の手法か何かで、昼間のシーンを夜に見立てて撮影したのか、それとも夜のシーンを明るく映したのかはわからないが、とにかく明るい夜の海辺の深い青だけは覚えていた。
そしてずっと長いことそれを再び観たいと思っていた。

今年になって、監督の高嶺剛の新作「変魚路」の公開と同時に、過去の高嶺作品を再び映画館で観る事ができる機会を知り、再びあの“青”を観に行ったのだ。

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「ウンタマギルー」のあらすじは、Wikipediaなどに書いてあるので省くとして、すっかり記憶から抜け落ちていたが「ウンタマギルー」というのはミュージカルだったのだということに気づく。
厳密に言えば、主人公ギルー(小林薫)の物語と、床屋のテルリン達と主人公ギルーの妹チルー(戸川純)の語り部のミュージカルとが同時進行していく。
ゆっくりとゆっくりと流れる南国の暮らしの中で、琉球、日本統治の沖縄、米軍統治の沖縄、そして再び日本統治へと変貌していく時間が描かれている。
少し前に、沖縄の日本復帰の中で米国にも日本にも属さない、「琉球」のアイデンティティをかたくなに主張し続けた人物のドキュメンタリーを見たが、この映画の中でもその精神に触れる。

この映画を観た当時は、沖縄の辿ってきた歴史もほとんど知らず、そこに気持ちを置くことができなかった。
今はその頃よりは多少なりとも沖縄の歴史を知っているはずなので、あの頃は感じることができなかった映画の奥にある沖縄の人々の気持ちを少しだけでも感じることができたように思う。

あの頃はまったく気にする事ができなかったのだが、豚の化身を親方に預けた神様がニライカナイの神様であるというところは発見だった。
私の知るニライカナイというのは、アイヌの天の河とか神様の国(※色々な説があるようです)を指す言葉だったからだ。
アイヌと琉球は共通点も多く、姿形も似ていることから、同じ民族なのではないかという学者の話も聞いたことがある。
Wikipediaで「ニライカナイ」を調べると、沖縄や奄美地方に伝わる伝承であると書かれている。
実際に同じものかどうかは私は学者ではないので判らないが、何かひどく奇妙で確信的な気分になったのだった。
あと、もう一つ気づいたのは、ギルーの物語が終った後、時代が沖縄がいよいよ日本に返還されることが決まった時間軸の中、主人公役の小林薫が、ギルーと同じシチュエーションで違う役柄で登場したとき、彼の役名は「サンラー」だったように思う。
ギルーと一緒に森にこもった過食症の母親役は、「ナビィの恋」のナビィ役の平良とみである。
そして、ナビィがおばあになっても待ち続けた恋人の名前が「サンラー」で、サンラー役を演じたのは「ウンタマギルー」の西原親方役の平良進である。

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[演劇・映画・音楽・美術]

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