◇NHK教育 北京パラリンピック 限界に挑むアスリート〜進化する障害者スポーツの世界〜
2008-09-06


NHK教育で5日の午後9時から放映された、「北京パラリンピック 限界に挑むアスリート〜進化する障害者スポーツの世界〜」を見た。

リハビリを目的としたものから、本格的なスポーツの世界に変貌をとげている障害者スポーツの“現在”をとりあげたものだが、その進化に驚いた。
南アフリカのオスカー選手が、義足をつけて“健常者”のレースに出場するだけの実力を身につけていることや、車椅子テニスに対する国際テニス連盟の取り組みなどを見て、やっとスポーツの世界で“健常者”と“障害者”の壁が薄くなってきていることに感動した。

私はスポーツには興味がなく、見ることもすることもしない。結婚するときの条件も、スポーツをテレビでいつも観戦しない人というのが条件だった(父が野球のシーズンになると、家に1台しかないテレビを独占し、見たいテレビ番組を見れなかったから)。
しかし、最近のスポーツ選手の取り組みなどを見ていると、たまに見るにはいいかもしれないと、ちょっとだけ意識が変わってきている。
そんな中で、以前友人のエアロビックインストラクターの所属する団体の手伝いをしているとき、その団体で力を入れているアダプテッド・エアロビックの取り組みについての話を聞く機会が多くあり、特に障害者スポーツに対する意識が変わった(といっても、あくまで素人レベルでのことだが)。
そのとき、(素人は素人なりに)スポーツをする上での健常者と障害者の違いというのは、いったいなんだろうと感じた。

障害があるということで、生活するだけでも大きな苦労を余儀なくされることは、想像しなくても理解できるものだが、その上でスポーツをするということは並大抵の努力ではないだろう。
しかしスポーツの世界において、健常者のスポーツ選手も競技でよい成績を残すために努力するのと同じように、障害をもっている人もその気持ちと努力は健常者と違うところは何もないのだろうと思ったのだ。
障害があるなしにかかわらず、スポーツがしたいと思い、その中で良い成績を残し、アスリートとしての努力を惜しまないというのは、健常者とか障害者とかいう問題などないように感じたのだ。

もちろん、障害を持つということは大変なことだろうと思う。身体の問題の上に気持ちの問題もあるだろうし、何より世間に出れば健常者はどうしても障害を持つ人に対して、同情的なフィルターを通して見てしまう。しかし、それは良くも悪くも、障害を持っている人に対する差別の意識につながっていくもののようだ。
もちろん、障害を持つ人も暮らしやすい町づくりや、困っている人を助けるという意識は大切だが、障害者であってもなくても困っている人に手助けするということが、障害者だから特にそうすべきだなどと意識を別にする必要はないということなのだと思う。
障害を持っている多くの人が、同情的な目で見られることに不満を抱いていることも聞いた。
(しかし、これは障害を持つ人に接しなれていないと、その加減は大変に難しい。私自身も、目の不自由な人と暗い夜道を二人きりで一キロほど駅まで歩く機会を与えられ、どう接していいのかわからず、気をつけていたとはいえ過度に心配してしまった。相手の人は何もいわなかったが、あまり良い気持ちではなかったのではないだろうか。)

この番組を見ていて、障害者スポーツを見るうえでは、そのフィルターはまったく必要がなく、ひとつのスポーツ競技であるという捕らえ方をすべきだということを、更に強く感じた。
出演していた高飛びの選手も、南アフリカのオスカー選手も、国際テニス連盟に認められた車椅子テニスの国枝選手も、健常者と同等に扱われ、同じ舞台に立ち、多くの人に観戦してもらいたいと熱望している。

続きを読む

[CM・テレビ・ラジオ]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット