◇東京で神田日勝の思い出にひたる
2020-06-14



神田日勝回顧展 大地への筆触

去年の今頃は帯広に帰省して、鹿追町にある神田日勝美術館に足を運んでいた。
すでに、今年からはじまる東京ステーションギャラリー、神田日勝美術館、北海道立近代美術館との巡回展が決まっていて、ふだん道立近代美術館にある新聞紙に囲まれた部屋にいる男の「室内風景」や、門外不出の「半身の馬」を一同に会して観る機会を楽しみにしていた。
その間、鹿追の神田日勝美術館では絵がなくなってしまうので、ふだんあまり出てこない絵を観る機会でもあると知って、今年も何度か帰省して足を運ぶ予定にしていた。

しかし、今回の新型コロナ渦のため4月から東京ステーションギャラリーで予定されていたものが延期、緊急非常宣言が解除となった6月はじめから時間を決めた入場制限つきの観覧ができるようになったが、東京では半月だけの会期となった。
今回、東京で神田日勝と対峙するにあたり、個人的には望郷の念が強く出てしまい、前半は涙があふれてとまらなくなってしまった。

今の状況では実家に帰ることもままならず、鹿追と札幌に観に行くことができるのかどうかは、現段階では定かではない。
都市間移動が推奨されていない状況では、帯広でも札幌でも内地からの客を歓迎してくれるとは思えないからだ。

父は絵が好きで、たまに名もない画家の絵をふらっと買って帰ることがあった。
一時期、かつて私の部屋だったところに、4畳半ほどもあるベニヤに描かれた裏寂しい木造の開拓者住宅の絵をおいてあったことがあり、なぜそんなものを購入したのか聞くと、「それはもらったものだ」と父ははっきりと理由をいわなかった。
その絵はいつのまにか姿を消していて、あの絵はどうしたのか聞くと「別な人にゆずった」と答えていたが、あんな絵をほしがる人がいたのだろうかと疑問に思う。
しかし今から思えば、あの絵は初期の神田日勝の絵の雰囲気に似ていなくもなかったような気がする。

禺画像]
自画像/神田日勝[神田日勝美術館

今から50年くらい前、妹の産まれる少し前のことだ。
駅前から稲田の国道沿いに引っ越したばかりの頃。
国道に面している大きな窓のある家の東側の方から、一人の男性がうちへ訪ねてきた。
玄関は西側にあるのだが、その人は庭からやってきて、ちょうど窓の外を眺めていた子供の私に窓をたたいて開けるよううながし、「とうちゃんはいるか」と聞いてきた。
その人は、鼠色のシャツに黒いズボンに黒い長靴をはいていた。顔は浅黒く日焼けしていて、全体的に黒っぽい印象が少し怖く思えた。
私の家を知る人であれば、私に父のことを「とうちゃん」と聞く人はいない。我が家に「とうちゃん」と呼ばれる人はいないからだ。
父は家の表側にある職場にいて、母はちょうど家にいなかったと思う。
私が「今いない」と答えると、「そうかまた来る」と言ってその人はその場を去ってしまった。
しばらくしてその人は母と一緒に家に来て、庭で二三話していたかと思ったら、家にはあがらずに来た方向に帰っていった。
母に誰が来たのか尋ねると、「絵描きの人だ」と答えた。
この記憶は子供の頃の記憶で、母はまったく覚えていないといい、父に確認しないまま父は亡くなってしまったので今となっては確認のしようもないのだが、私はその時の男の人の顔が神田日勝に似ていたような気がしてならないのだ。

父は蕎麦が好きで、鹿追や新得方面にふらっと蕎麦を食べに行くことがあった。
私が一緒のことはめったになかったが、私が一緒のときは必ず神田日勝の絵を観につれていってくれた。

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