◇訃報 - デヴィッド・ボウイ
2016-01-12



David Bowie - Lazarus

デヴィッド・ボウイが2016年1月10日に亡くなった。
享年69歳。
ネットのどのコメントを見ても、「信じたくない」「信じられない」という言葉が踊り、新作を1月8日の誕生日に発表したばかりの悲報に驚くばかりだ。

私もニュースを見たときには、信じられなかった。
でもそれ以上に、デヴィッド・ボウイが死んだというニュースに衝撃とショックを覚えた。
悲しみよりも驚きの方が先にあって、悲しいという気持ちは正直まだ心に到達されていない。
なんとなく、デヴィッド・ボウイは死なないような気がしていたからだ。
その理由は、私の中で彼は人間としての存在よりは、ポップアートの作品としての存在の方が大きかったからだ。
つい先日亡くなった、水木しげるもなんとなく死ぬ事などないんじゃないかと思っていたが、彼はデヴィッド・ボウイのそれとはまたちょっと違う印象。

去年、「David Bowie is」という、イギリスで行われた大回顧展の映画を見たときに、この人は自分自身をアート作品として常にプロデュースしつづけてきている人なのだと、強く思った。
ジギー・スターダストの頃の舞台装置のスケッチや、衣装の細部にいたるまで、自分自身の持つ素材を最大限に利用して、表現するという貪欲な意識を感じて、真に稀代のアーティストであるのだと痛感したのだった。
私たちが見ているデヴィッド・ボウイ自身は、彼の表現している作品であり、私たちの前からなくなることはない。
心臓疾患でステージで倒れ、その後作品を発表しなかった10年間がひどく長いものに思えたし、死ぬならそんな風に世間から隔離された状態でひっそりといなくなるんじゃないかと思っていたのだ。

イギリスで行われたこの回顧展は、誰もが引退したと思っていた10年の空白のあとの2013年に発表した「The Next Day」に合わせたものだった。
「Heroes」のジャケットの自分の姿を白い四角で隠したジャケットのこのアルバムは、PVも若い自分(のイメージ)と歳をとった自分とが出てくるもので、過去の自分と現在の自分とは違うものであるということを、私たちに訴えているように思えたので、この回顧展が「The Next Day」に合わせたものであるということが、少し複雑な気持ちだった。
私たちのもっているデヴィッド・ボウイのイメージは、常に回顧展の中にあるものであることは疑いようがないのだが、当時のデヴィッド・ボウイはこのイメージの中にいることはないと言いたかったのだろうかと思ったりしたからだ。
老いという避けがたい変化の中で、素材としての自身をアートに昇華することの難しさをPVを見て感じた。
そして、「Heroes」のジャケットを打ち消しているかのような「The Next Day」のジャケットも、色々と想像をかきたてられるものだった。

今年の1月8日のニューアルバム「Blackstar」を私はまだ聞いていないが、発表されているPVなどを見る限りでは、老いと死をテーマにしているのではないかと思えるような、そんな印象を受けた。
ネットのどこかで、死んだのはデマでニュースで販促しているのではないかとか、死んだことで「Blackstar」をアートとして完成させたのではないかという話をしている人がいた。
彼が亡くなったのは真実のようだが、見方としては私はそのどちらでもあるのだろうなと思った。
デヴィッド・ボウイが死ねば、彼の古いファンで新しいのは知らない人も耳にする機会が増えるだろうと思う。
それくらい、多くの人に彼の作品を示しておきたかったのだろうと思った。
デヴィッド・ボウイという生き様の中でも、ものすごく計算された死に様。
老いや死さえもアートとして昇華する、彼のアーティストとしての覚悟に感嘆するばかりで、なんとなく悲しんでいられないのが正直な気持ちだ。
というか、やっぱり死んでなんかいないんだろうなと、そんな風にも思ったりする。


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