◇20世紀末に置き忘れたものとは何かという雑感
2015-03-20


最近、新しいものが出てきても、まったくわくわくしなくなってしまった。
年をとったと言ってしまえばそれまでなのだが、私の中で新しいものを新しいものとして受け入れていないような気がしてならないのだ。

例えば音楽にしても、全てが昔聞いたようなメロディだったり、歌詞にしても繰り返し繰り返し同じようなことが歌われているような気がしてならない。
昔聞いたような気がするのなら、昔聞いた歌を聞いた方が自分にとっては居心地がいい。新しいものを追いかけるよりは、傾向と主張がはっきりしているものの方がとっつきやすいし、「これは何々のどこどこのリフだ」とかいちいち分析せずとも、気楽に聞くことができる。

昔は、プロが人の真似をするということを、亜流だとか模倣などと、まるで三流扱いされてきた。
もちろん、60年代の音楽ですらその前のブルースだとかジャズだとかの模倣であるといえるし、後で聞いて「ああ、これってこの曲のパクリだったのか」と気づくこともしばしばある。
しかし、亜流や模倣でも、それがそれを発信する人の魂の込められたものとして存在することを、見ている人が容認できるような作品であれば、それはそれで受け入れられてきたのだ。
パクリといわれようと、それが元と同じかあるいは越えたと思わせる力があれば、自然とそれはそのアーティストの作品として認知されてきたのだ。

だが、最近はそういう気概さえも感じず、ただただ同じようなことが繰り返されてきているようにしか感じなくなってきたのだ。

まして、以前のカルチャーは、主流であってもサブカルチャーであっても、その周囲の文化までも巻き込んで、一つの渦のようなものを感じることができた。
音楽、ファッション、アート、アドバタイジングなどが一つになり、それは連動して動いていた。
ヘアスタイルやファッションを見れば、その人の文化的傾向を見ることができたし、そういうものに興味のない人でもファッション雑誌の傾向で多少なりともその好みの主張を見ることができた。

今はそういったパッションもムーブメントも感じることはない。
ムーブメント自体が簡単に作られて捨てられてしまうものになって気づかないまま過しているのか、それともそんなものはすでに存在すらしていないのか。

そんなことを近年考えているうちに、そういう風になってしまったのはいつ頃からだっけと考えるようになった。
気づくとそんな世の中になっていた。
そういえばそんな風に思うのは、21世紀になってからではないだろうかと最近感じている。

90年代ですらすでに20年前という時代に入り、懐かしいあの曲などラジオで聴いたりすると、その時代背景が頭に自然と浮かんでくる。
自分が好きだとか嫌いだとかに関わらず、ああ、この頃はこんなファッションが流行っていたなとか、こんな遊びをしていたなとか、こんなニュースがあったななどと思い出すことができるのだが、21世紀に入ってからはまったくそういうことを、音楽やアートから思い出さなくなっている。

2000年頃の思い出というと、2000年問題でコンピュータが一斉に壊れるとか、結局1999年にはハルマゲドンも彗星衝突も人類滅亡もなくて、普通にミレニアムとかいって21世紀に突入してしまった。

エンジニアかオペレーターしかいじらなかったコンピュータが家庭に普及し、1人に1台携帯できる電話が普及し、そのうちスマートフォンという名の持ち運べる簡易コンピュータを持つようになったのだ。
すでに人々は家からでずとも、世界中とコミュニケートできるし、世界中の文化に触れることができる。
あれだけ情報に枯渇して、ラジオや雑誌をむさぼるように新しい情報に触れたい、感じたいと思っていたものが、何もしなくても情報が向こうからやってくるようになった。
いまや、人々は何かほしいと思わなくても、思う前にそれが手に入る準備が整ったのだ。


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