学生時代は長期の休みに帰省することができたが、仕事をするようになると往復7万円近い交通費を捻出するのは難しく(当時は安い航空券がなかなかなかった)、しばらく帰らないでいるうちに帯広は私の知らない街になってしまった。
人が大きく変わっていくのもちょうどこの時期で、その頃の私の故郷に対する喪失感は相当なものだったのを覚えている。
このあたりは今でも「まち」と慣例的に呼ばれてはいるが、昔の「ちょっとおしゃれしてお出かけする場所」という意味ではなくなってしまった。
今このあたりにいるのは、テレビを見て駅前のぱんちょうの豚丼を食べようとやってきた、観光客だけのような気がする。
1986年当時の地図を起こすにあたり、本当なら南8丁目あたりまで作りたかったのだが、あまりにも巨大な地図になりすぎるので断念した。
西2条南8丁目周辺には、六花亭の本店もあるし、劇団しらかばの本拠地(?)であったスケアクロウもあったが、掲載することができず残念である。
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今も昔も変わらない、かじのビルの入口 | マルヒロセンター入口看板 |
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現在のかじのビル外観 |
それでも、すでになくなってしまっていると思われていた、かじのビルと「西2条通りの廉売」マルヒロセンターは未だ健在であった。しかし、かじのビルは一階には昔からあった食器屋一店があるだけで、1986年当時あった魚屋や乾物屋などの店鋪はもうなく、閑散とした中に「懐かしの昭和展」なるものを展示してあり、ちゃぶ台に茶箪笥、足付きテレビといった昭和当時の再現ディスプレイがあった。Piccoのあった2階はサラ金が入っているようだった。
マルヒロセンターは、西2条に面した入り口に、昔からある博多屋という靴屋があるだけで、年寄りのおしゃれの店が並んでいた場所はほとんどテナント募集中であった。ところどころに、新しい飲み屋が入っており、マルヒロセンターを抜けて西1条の裏通りに出ると、最近帯広で話題だという屋台街に出る。屋台街には、昔ながらの一杯飲み屋風の店から、中国人による本格中華、イタリア料理屋、ブラジル料理屋(?)などめずらしいお店も並び、おいしそうな匂いがただよってくる。この次帯広で遊ぶ時間のあるときは、是非立ち寄ってみたいと思った。そして、ここを中心にまた帯広の「まち」が活気を取り戻してくれるといいと思う。
マルヒロセンターも、この屋台街の延長として新しく変わろうとしている最中のようで、帯広の「まち」が誕生した当時からあるマルヒロセンターが、そのきっかけを作るかもしれないと思うと、なんとなく感慨深いものを感じた。
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