◇帯広市の“まち”のシンボル広小路
2010-06-17


荷台に乗ると、一段高いところに座ることになるので、オープンカーの開放感プラス全身で風を切る感じがとても気持ちよかったのを今でも覚えている。

私が高校を卒業する1984年か1985年頃には、とくらビルの地価が一億になったというのがニュースだったような気がする。
広小路には、DCブランドの店が軒を連ね、その間に老舗の店が混在していた。
私も毎日のようにここに通ったが、広小路はアーケードをくぐるだけでちょっとわくわくするような場所だった。
藤丸が7丁目に移転し、ホシビルが広小路の西側にできて、広小路から駅をつなぐ二条通りは本当の意味で帯広のメインストリートであり、広小路はその屋台骨を支えるアーケード街だった。
帯広の七夕祭りには、広小路に仙台の七夕をもっと庶民的にした手作り感満載の七夕飾りが飾られ、平原祭りには花笠音頭のパレードが広小路をメインにまちなかを闊歩した。
広小路は、帯広市民と「まち」の活性化にはなくなてはならない場所だったはずなのだ。

帯広広小路の歴史は長い。
ネットに公開されている帯広の歴史年表(pdf)を見ると、1924(大正12)年に「現在の広小路に露天商組合が設立された」となっている。
1930(昭和5年)には店舗数が90店舗になり、この年の12月に二条8丁目に藤丸デパートも開業している。
1945年(昭和20)年の終戦時に木造の屋根がつけられ、その6年後の1951(昭和26)年に正式に帯広広小路と命名された。
店舗もそれまでは振興マーケット形式だったのが、1953(昭和28年)年には現在の店舗形式の商店街に作り変えている。
その後北側が火事で焼けたり、アーケードが大雪で倒壊したりもしたが、何度も改修を重ねて市民の憩いの商店街として存続してきたのだ。

現在、アーケードの老朽化に伴い、広小路アーケードの撤去の計画も聞かれる。

帯広の「まち」の象徴である広小路が、変わり果てたとはいえ今でも帯広市民の心に「まち」の象徴として残る形なのであれば、昔のようにとはいわないまでも、新しい形で継承していくような場所になるといいのにと、願わずにはいられない。



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